南米 プー太郎卒業旅行 H03-01-??->H3.3.16

旅日記

香港、タイ、アメリカ、メキシコ、ペルー、ボリビア H03-01-??->H3.3.16

パスポート再発行 03-01-23 バンコク
バンコク発   01-26
成田着     01-26
成田発     01-31
ロス着      01-31
メキシコ入国  01-31
メキシコ発   01-05
ペルー着   02-06
ペルー出国  02-11
ボリビア入国 02-11
ボリビア出国 03-03
ペルー入国  03-03
ペルー出国  03-05
メキシコ入国 03-06
アメリカ入国 03-06
ハワイ発   03-15
成田着 03-16


  就職が決まりぷーたろう卒業旅行にでた。初めてのひとりたび。不安はつのる。

 週刊朝日の連載で12万円で世界を歩くというものがあった。当時の1000$。下川祐二が貧乏旅行を行うというもので、そういった旅をしたいと思った。就職すると長い旅は不可能になるので長い旅にでることにした。最終目的地はずっとあこがれていた南米。まあ、いろいろと紆余迂曲説があり、1月に成田発。キャナディアンで香港。香港からバンコク。バンコクでインドまでのチケットをかい、インドからは陸路でヨーロッパに行きそこから南米に渡る予定であった。

 香港までは何の問題もなかった。夜中にバンコクについて、バスでダウンタウンに入るときに事件はおこった。暑さと眠さでボーットしていて、TC50万ぐらいとパスポートをすられてしまったのである。まずはトラベラーズチェック。バスの終点にあったバンコクセンターホテルで事情を話し、カード電話。日曜日であったため、トーマスクックの日本の代理店お休みであるため、イギリスのピーターボロウにある窓口に電話をした。英会話なんてまるでできない私であるが、自分がやらなければお金が戻らないわけで必死になってやりとりをした。通報し、バンコクの支店の場所を聞いたぐらいのことであるが、これで度胸がついた。これ以降語学力の問題で困ることはあるが、こんな英語でもなんとかなるという、自信がついた。後警察に行き、事故の証明をだしてもらう。その日はそれで終わり。このホテルにこのあと10日ぐらい泊まることになった。幸い500$ぐらいの現金とクレジットカードがあったのでバンコクでの生活は困らなかった。

 翌日少額のチェックを換金。東京銀行のチェックは5万円だったのでその場で再発行してくれた。トーマスクックの方は金額が大きいのでパスポートがないと再発行できないといわれた。次は日本大使館。事情を話したところ、日本のパスポートは10数万円で大陸の人が買うそうで、赤いパスポートの価値についてご講義をいただいた。あと、薬物、女のこと等々、、、。帰国するための書類は数日でできるそうであるが、今後も旅をする予定だったのでバンコクで再発行してもらうことにした。これに10日ほどかかる。そのためバンコクに10日せっちんずめとなった。なにせパスポートがないので、バンコクは離れられない。よって排ガスのなか町を歩き回った。そんなことをしているうちに新聞にスカッドミサイルだなんだのという記事がでるようになった。湾岸戦争が始まったのである。この時点で中東を抜けてヨーロッパに渡るプランは断念した。なにせ戦争である。バンコクから直接南米にいくとか、ヨーロッパまで飛行機で行くとかいろいろと考えたが、日本に一度帰ってからアメリカに渡るのが一番やすいということになり、エジプト航空に乗って成田に戻った。エジプト航空のジャンボは広くて良かった。マニラに途中泊まったがおろしてもらえずマニラに足をおくことはできなかった。

 東京について、すぐにアメリカ行きを予約。ノースウエストは帰りにハワイによっても料金が変わらないので、ノースを使いハワイによって帰ることにした。

 成田からロスに。ロスからグレイハウンドでサンディエゴ。サンディエゴから路面電車に乗ってティファナにわたったときには夕方になっていた。ここから長距離バスターミナルまでいき、メキシコシティーを目指す。はじめのもくろみではずっと陸路で南米に行く予定であった。ティファナからメキシコシティーまでは50時間。確か6000円ぐらいだったと思う。乾燥地帯を延々と走り、まずいタコスを食べてメキシコシティーについたときはくたくだった。ここで、日本人バックぱっかーのたまり場の宿に泊まり情報収集をしたところ、パナマとコロンビアの間は通行がきわめて困難でここをわたれば本がかけるといわれた。ということで、メキシコからリマまで飛ぶことにした。出発まで遺跡をみたりして過ごした。ここも空気が悪い。

 リマに到着すると、客引きがたくさんいてほんとうっとうしかった。自分はここからなんかしてチリにいきたいとしつこくいったが、結局一人のおばちゃんに捕まりしないの旅行会社まで行った。おばちゃんはしつこくマチュピチュ旅行をすすめるのであるが、こっちは時間があるため自分でバスで行くとかなんかするとか好き勝手なことをいっていた。するとおばちゃんはそのエリアは反政府ゲリラがいて危険だとかいろいろといってくる。強気に出ていたらツアーの値段がどんどん安くなり、はじめの言い値の半額の250$になっので手をうってクスコ、マチピチュ、チチカカ湖、ボリピアツアーをする事になった。

 翌日お迎えの車に乗りクスコに。空気が薄い。宿に荷物をおき、広場をたらたらしているとまた客引きがきた。ピッザックツアーといってクスコ近郊の遺跡を巡るツアーである。値段の交渉にはいり、私は学生だから金がないといったら、こっちも安くなった。オヤイタイタンボなどの遺跡はなかなか見応えがあり、おとくだった。いくきかいがあったら是非見てもらいたい。この夜はクスコのレストランで食事をとった。日本人らしき人がいたので声をかけたら韓国人であった。同席させてもらって話をした。韓国の大学院せいだそうで、キリスト教ってやーねなんてたわいのない話で盛り上がった。つまらない話をしていると、流しのフォルクオーレ演奏者が入ってきて、演奏をはじめた。十代前半から後半の人たちで、その演奏は抜群ですばらしかった。感動したのチップをはずんた。

 翌日は車にのっけられマチピチュにむかう。といっても途中からは電車。駅を降りてバスに乗る。つづらおれの道を登っていくと遺跡についた。遺跡は大きいのであるが、ここに数万人もすんでいたのかと思うとなかりの人口密度でえらく狭く感じた。石造りの空中回廊十三年たっても鮮明に思い出される。3時間ばかり見学して駅まで歩いて降りるが電車がこない。一つクスコよりの駅まで行き、日本人の人たちと食事をして電車をまった。ここであった日本人は二人の卒業旅行の女性と別口の男性。算にとも関西人なので、関西弁でもりあがっていた。そこでの話題は、コレラとテロと泥棒。この当時海岸沿いでコレラが流行して1000人が死んだとかまことしやかに噂されていた。テロについては、私がリマに着いた日にケンタが爆破されていて、結構リアルな話題であった。山の中に反政府ゲリラがいっぱいいた時代である。また、この当時の治安はかなり悪く、銃を使った犯罪の話は聞かなかったが、物取りの話はよく聞いた。現に私もザックをとられそうになったし、関西弁ねーちゃんの一人も高原列車のなかで首から下げたポーチをとられている。航空会社にあずけた荷物がカッターで切られて中身がとられたとか、クスコで三人の男に囲まれてカメラをとられたとか、、、 まだまだあった。

 この女性二人とはボリビアのラパスで再会し、一緒に旅をすることとなる。日本人と話をしていたので退屈はしなかったが、土砂崩れで遅れた電車は五時間ぐらい遅れて到着し宿屋についたのは午前二時をまわっていた。

 翌日はクスコをさよならしてプーノにむかう。世界一高いところを通る列車なのでかなり有名な路線であるが、ツアー代を値切ったので地元のひとと一緒である。その方が楽しいのであるが、一人旅だとどうしても荷物の管理など難しいので気をつかった。この当時の旅の鉄則は、食べ物をもらわない、眠らない、荷物は持って歩くであった。二等車なのでものを売りにくるおばさんがいるため、食べ物はそれを買い、あまり飲み食いはしなかった。荒涼としたところに頭にリボンをつけたアルパカがいる風景が残っている。その風景を見たい方は世界の車窓からのビデオでも見てください。

 夕方になりフリアカという駅に到着した。電車の中は薄暗い裸電球があるだけで、闇に近い。私の足下に子供が入ってきてなにかとの下を向いたときに上の方で「ばしっ」っという音がした。訳が分からずきょろきょろしていると同じコンパートメントの人が泥棒だと教えてくれた。私はザックをカラビナで棚とつないでいたのでとられずにすんだ。ヨーロッパ人は鎖と鍵で荷物をくくっていた人が多かった。鍵をつけていなかった現地であった日本人はザックとられ旅をあきらめた。ということで、このいっけんでコンパートメントの人とは気分的にうちとけた。といってもスペイン語がわからないので、なんとなく安心しただけだったが、プーノに到着したときはホテルまで送ってくれるといってくれた。忘れられない思い出である。駅に予定どおり、大幅におくれて到着した。

 今日はチチカカ湖ツアー。ボートで葦で作られた島に行く。ツアーコンダクターは山をやる人で私がズボンにつけていたカラビナを見て山をやるのかといって話しかけてきた。いろいろと話したかったが、語学力の問題で話は弾まない。島につくと葦で作った島に葦で作った家があった。テレビでもよく紹介される場所でそのに人々は暮らしているといわれているが、地元の人に聞くと対岸から毎日通ってきているとのことである。昼食はますのフライをたべた。

 今日はツアー最後の日で、バスでボリビアのラパスに渡る。バスから見たチチカカ湖は青くとても美しかった。このバスにはマチュピチュであった関西弁にーちゃんがいたが、出国のスタンプをもらい忘れ、ボリビアの入国ではいろいろと文句をいわれて七日の入国ビザしかもらえなかった。ご愁傷様である。このバスであったまた別の日本人とこの日はホテルの泊まった。私が前に関わっていた天文クラブの後輩の人で、この人はだいぶ金を取られたらしい。体調も悪かったようだが、中華料理屋にいき、久しぶりに醤油を口にしたら彼は生き返った。ラパスには中華料理屋が結構あり、日本人の私が行くと日本語で話しかけてくるひともいた。ボリビアは物価が安く北京ダックも五百円ぐらいでうれしかった。翌日は彼とはさよならして、町を歩き回った。ラパスはすり鉢状の町で下に行くほど空気が濃いため高級住宅街になる。ちなみに空港はすり鉢の外にあり、標高は4000mを越える。坂は結構急で歩いているだけで息が切れる。雨が降ると川ができてゴミを下の方に流していく。

 ここボリビアの治安は大変よく、夜中でも女性が一人で歩いていてペルーの治安の悪さとは雲泥の差があった。やはり治安が良いところは安心して生活できるため好きになれる。

 バイクで世界を回っているにーちゃんがいて、安い宿があるというのでそちらに移る。レジデンシャルスークレとかいったかな。ぼろいけど、清潔な宿だった。ボリビアではレンタカー借りてウユニ湖に行くつもりであった。いまから考えるとえらく無謀だと思うのだが、立派でしたね。レンタカーを借りて町を歩いていると、マチピチュであった関西弁ねーちゃん二人組にあった。私がレンタカーでウユニに行くと話すとつれていってというので、翌々日に一緒に行くこととなった。関西弁ねーちゃんの一人はスペイン語がべらべらなのでとても安心した。

 翌日はチャカルタヤというところまで一人で車で行った。標高五千メートルを超える高地であり、歩いているだけで息が苦しかった。

 翌日二人を迎えに行った。一通を逆行したら警官がいて賄賂を要求されさいさきが悪い。車はランクル。後からわかるのであるが、四駆のはずがFRだった。ラパスをでて、イリマニ山を左にみながら南下する。ラパスをでてすこしすると、オフロードになった。ちょうど雨期であったため、ときおり雨が降る。橋のない川があり、水のなかに入りながら通過。途中草原にははいっていってスタックし動かなくなったときにはどこからともなく原住民があらわれて手伝ってくれたがちゃんと報酬を要求された。お仕事のようである。ドライブ一日目はポーポー湖わきのちいさな村。村の入り口で軍人にホテルを尋ねると連れていってくれた。小銭を渡そうとしたが受け取らずびっくりした。ほんとうに小さな村で、小さなレジデンシャルであったが、まあきれいだった。食事については記憶がない。

 二日目はウユニ湖をめざす。ローカルな道を本当にいい加減な地図でまわっているので、よく道がわかなくなったが、関西弁ねーちゃんAの語学力に助けられ迷わずにはしれた。峠を越えて前方をみると白い空間がみえた。ウユニ湖である。その昔ここは海であったが、近くの隆起があり、今は4000メートルの大地となった。その時に残された海水でできたのがウユニ湖。といっても水はほとんどなく、塩の大地が続いている。私のいった2月は雨期であったため、水深は数センチあった。ウユニは少々都会で鉄道の駅があり、ホテルも何件かあった。これで、今回の目的は終了した。

 三日目。山道をぬけ、真っ赤な大地、赤い水の水路わきをぼろランクルはねばり強く走る。トボシについたのは3時頃。有名な銀山がある町で、都市である。

 四日目。コチャバンバに向かう。途中スークレではカルナバルをやっていて、町はお祭り気分であった。

 五日目。ラパスに戻った。一度旅先であっただけのひとと五日も一緒に旅をするというのはこの時が最初で最後である。楽しい旅だった。やはりその当時の南米の治安の悪さのなかで、日本人であればだれでも信用するという雰囲気があった。ちなみにAさんは丸紅に、Bさんは三井物産に就職が内定していた。これには後日談があり、Bさんは帰国後B型肝炎になり入社式にも出られず半年ほど病欠をしたそうな。でも首にならなかったとのこと。

 つぎの日はラパスをぶらぶらし、その次の日はバスでサンタクルスにむかう。途中でバスがパンクした以外はトラブルもなく、予定どおり数時間の遅れでついた。サンタクルスは標高が低いので南国である。町の中には露天の焼き肉屋があり、牛肉の串焼きが安く売られていてうまかった。広場にはナマケモノがいるきもあって楽しい町であった。近くには沖縄という日本人の村があるというのは、このずっと後に知った。バスの旅はいいかげん疲れたので帰りは飛行機に乗った。

 ラパスからリマまでは飛行機を使用した。今ならアリカにでて国境越えとか考えたと思うが、知識不足か疲れたか。

 リマを夜でてメキシコについたのは朝。シウダファレスいきの飛行機がちょうどディスカウントであったので、急いでその飛行機に乗りシウダファレスへ。エルパソに渡り、フェニックスまでバス。夜フェニックスについた。バスディーポでタクシーをひろいサーキットの近くの安いホテルまでいった。

 フェニックスではF1見物。町のメインストリートを車が走るというモナコのようなところ。フェニックスでF1のレースがあるというのをボリビアの日本大使館の新聞でみただけで、サーキットがどこにあるのかも知らなかった。町がサーキットになっているなんて思いもよらなかったのでタクシーに乗ったが、どうもぼられたようだった。

 アメリカはインディーの国でF1はマイナー。予選の二日ぐらい前の日であったがゴールドのチケットがかえた。驚くべきことにパドックにも入れた。セナのサインももらえた。一番前に座ればわずか2m下をF1の車が通り過ぎる。日本では考えられないことばかり。このころはF1ブームで日本人もぼちぼちいたが、ボリビアであったような日本人を求める気持ちは全然わいてこなかった。

 レースはセナの圧勝で終わった。レースが終わってバスに乗ってロスに向かう。夜中にロスについたが、この当時のバスディーポ周辺は特に治安が悪く、怖かったのでそこで出会った日本人とタクシーで空港まで行った。

 夜が明け、飛行機でハワイ。ハワイでユースに泊まった。安かったがまあひどいところだった。

ハワイでは特にすることもない。ハワイに用事があったわけではなく、ストップオーバーがただだったので寄っただけだから目的もなし。この時期のハワイは雨期で肌寒い。ワイキキで水着になっているのは日本人だけ。リゾートに一人できても退屈なもので、物価も高いので特になにもしなくともお金がでていく実に邪悪な場所である。出発の前の日はレンタカーを借りて、宿はとらなかった。車があると自由はきくが太陽のないハワイはいまいちだった。翌日日本への飛行機に乗り長い旅は終わった。





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